逆境を乗り越え、未来へ紡ぐ — 歴代会長が語る長岡YEGの歩み

歴代会長に聞く(19代会長鷲頭 加思郎先輩、20代会長田中康雄先輩、21代会長杉本 良輔先輩)

25周年の節目にあたり、19代会長鷲頭 加思郎先輩、20代会長田中康雄先輩、21代会長杉本 良輔先輩に想いと長岡YEGの歩みを伺いました。

20周年についての
エピソード

Q. 鷲頭先輩のときも 20 周年事業を行ったと思いますが、その時の周年式典等の思い出はございますでしょうか。

鷲頭先輩(以後「鷲頭」):20周年時はまず、(コロナ禍で)開催できるかどうか。というところが一番のハードルでした。 結局、開催できたんですけど。終わってから急激に感染者数が伸びて、もうあれが最後のチャンスだったかな。というふうに思っています。
あの状況の中でよく、あれだけの対面での式典、祝賀会をやったなというのは、本当に皆さんのおかげだな。というのと運が良かったかな。とそういうふうに思っています。

鷲頭:結果としてはすごくいい式典になったし、いい祝賀会ができて、それがまた次年度以降につながっていけばな。と感じていますので、大変ありがたい機会だった思います。

20周年式典

20周年式典

20周年祝賀会

20周年祝賀会

20周年祝賀会

20周年祝賀会

20周年祝賀会

20周年祝賀会

Q. その当時、杉本先輩は、20 周年の担当理事だったと思いますが、当時の設営の様子や思い出エピソードはございますか?

杉本先輩(以後「杉本」):そうですね。 今まで青年部で表舞台に立っていなかったようなメンバーも一緒にやることができ、その方達が本当に一生懸命やってくれて、輝いて、そのまま上に上がるみたいな、そんなイメージがあって。 やっぱりいいメンバーは、いっぱいいるんだなっていうことを感じました。
私は、ずっと役員とかしていて、フロアメンバーというか、委員会に所属することがあまりなかったのですごく新鮮で、いろんな方とも仲良くなれたし、楽しかったです。

コロナ禍の活動について

Q. コロナ禍の当時は会合等に対しての世間の目が厳しく。青年部の活動が難しかったと思います。その時の田中先輩の思い、また設営についてはいかがでしたか。

田中先輩(以後「田中」):そうですね。鷲頭会長の 20 周年の翌年に会長職を務めまして、なんとか運良く、設営等々ができましたが、コロナが一向に収束せずですね。
長岡YEGは、全国から見ても規模が大きな組織ですし、長岡地域にとっても期待されていた組織で、コロナ禍に集団感染を起こすというのが対内的にも対外的にも、ご迷惑をかけるという位置にいたと自覚していましたが・・・かといって「何もしない」というのは、メンバーが所属している意義をなかなか見いだせないと思い、「ある程度少数であればいいんじゃないか」というところで大々的な活動はできませんでしたが。

田中:趣味嗜好、なんでもいいですけども、暇ある同士で、委員会枠を超えた小さな交流をいくつもやっていただきたいというお願いをして。
各委員長が積極的にそのような活動をしていただけたのは、ありがたかったなと思ってます。何もできなかった分、少人数で密な交流ができたのが、今の長岡YEGに繋がる一つのきっかけになったのかな。というふうに考えています。

Q. 鷲頭先輩が会長当時は、ラーメン選手権を中止せざるを得なかった状況の中で、例会や役員会をオンラインで開催するなど、色々工夫された部分もあるとは思います。 自分たちの事業をやりたいけれども、世間が認めてくれない。 そういう狭間の中で御三方は、何を一番重要視されていたんでしょうか。

鷲頭:今思うと、すごく状況が本当に流動的に変わっていく時だったんで、まだコロナ禍になったばかりの年でしたし。
年初の時は、「予定通りできるかな」「すぐに収束するかな」と思いつつも、それがなかなか思い通りにいかなくて。
その中でいろんな事を方向転換しながら、zoomですとか、オンライン等の新しいツールを試しながら。、試行錯誤しながら進んでいきました。

鷲頭:ここにいる皆さんもその当時、副会長ですとか委員長をしていただいたので、常に皆さんと知恵を出し合って、そのことだけを考えてやっていったかなという感じがします。

Q. 田中先輩の時は地域の宝発信委員会や、担い手づくり委員会等、コロナ禍であるけれども、長岡を盛り上げたいといった印象を受けました。その点はいかがでしょうか。

田中:そうですね。 やはり活動が制限される中で、一番はメンバーのみんなが YEGに所属している意義・モチベーションを切らさずにしていただくにはどうしたらいいかな。というところを重点に考えていました。

あと、コロナ禍でメンバーには本業もあって、みんな大変な時期だったので、なんとか盛り上げることができないかな。という想いで、小さなことからでも、という意識で活動をしたつもりです。

Q. 杉本先輩の時はコロナ禍でも神輿が 3年ぶりに復活されているかと思うんですけど、その時の想いはいかがだったでしょうか?

杉本:そうですね。 皆さんご存知ないかもしれないですけど、僕だいぶ前に神輿のプロジェクトリーダーをさせていただいて、一回も神輿を担いだことがないプロジェクトリーダーで(笑)いろんな人に怒られながらやらせてもらったんですけども。
それがすごく楽しくて。思い入れがあるんですよね。

杉本:なので、今年の神輿も参加させていただいたんですけども。 当時、やれるかやれないかってところで、やれるんだったら楽しくやりたいなと思い、大手通り商店街と一緒にやらせてもらったと思うんです。 PCR 検査もして、陰性な人が参加できるみたいな流れだったんですよね。 でも、それでもやれたことが僕の中では嬉しくて、すごくいい思い出になりました。

Q. 御三方に共通の質問ですが「今」の長岡商工会議所青年部についてどう感じていらっしゃいますでしょうか。

杉本:会長が目の前にいるんだけど

(笑声)

鷲頭:正直、卒業してから濃い関わりがなかなかできなくて、この前の神輿も参加してないんですけども。(笑)

鷲頭:やっぱり今までの伝統と言いますか。我々を含めて、先輩たちが作っていただいたものをしっかり引き継ぎながら、新しい感覚で、時代に合った形で模索をしながら進んでいるのかなと。
だから、社会にも受け入れられたり、行政の方との関係も良好で、いろいろ活性化ができているし、それによって会員数も増えて、長岡市行政や市民からも認められている存在で頑張っていただいてるかなというふうに思っています。

Q. 田中先輩はいかがでしょうか?

田中:そうですね。 私たちのときはコロナ禍ということもありましたが、今はだいぶ委員会の出席や活動も積極的に関わっているメンバーは増えていると聞いていますので、素晴らしいなと。いろいろ学ぶこともあるんでしょうけど、まず第一に楽しく活動ができる仲間ができるということが、代々受け継いで、現役のメンバーがそこを意識しながら活動している成果だと感じております。

Q. 杉本先輩はいかがでしょうか?

杉本:はい。 僕、チャーターメンバーなんで、初期の頃を知ってるんですけど、本当に動く人はごく一部で、あとはちょっと飲みに来るとか、たまーに来るとかで、協力して何かをするっていうイメージがちょっと薄かったです。 こんなことを言うと先輩には怒られそうなんですけど(笑)そんなイメージだったんですよね。

杉本:僕も最初の頃は、一生懸命出てたんで、どんどん仕事が回ってきまして。誰かに協力を求めようとすると「いや、俺はいいや。」 って遠慮されるんですよね。 結局、限られたメンバーだけで何かをするっていう感じだったんですけども。今は全く違って、会長を筆頭に副会長、担当理事、委員長、メンバーが一丸となって事業、活動をしてる。と感じていて、この流れをずっと続けていってほしいなというふうに思います。

次世代の方々へ向けて

Q.最後に、一言お伺いしたいのですが、先輩方にとって長岡商工会議所青年部とは?

鷲頭:一言というと「場」ですよね。 集いの場でもあったり、プラットフォームっていう風に言ったり。いろんな交流の場であったり、絆を作る場であったり、成長できる場であったり、いろんな機会を与えてくれる環境がここにあって。
そこに所属してるだけだと何も得ることはないけど、その場にしっかりと立って、いろんな人と関係を作る。関係を持つことによって、いろんな経験ができて。
それが僕にとっての、財産になっていくものなのかなと思ってます。

Q.田中先輩はいかがですか。

田中:そうですね。難しいなと思っていて。「挑戦」っていうんですかね。YEG 活動を通じて、普段考えても自分の商売としてやるにはリスクあったり、ちょっと手が出せないようなことも、その YEG 活動を通じてチャレンジしてもらって、そのフィードバックを自分の企業に還元させることができる組織なのかな。というふうに思ってます。そういった意味では挑戦じゃないかなと思います。

Q.杉本先輩はいかがですか。

杉本「学び舎」ですかね。チャレンジもできるし、友達もできるし、社会貢献もできるし、もう全てが揃った場所じゃないかなと思います。

総評

コロナ禍が収束してから数年が経過しました。
お三方のお話を伺い、コロナ禍での青年部運営がいかに大変であったかが良くわかりました。コロナ禍でも青年部活動をの灯を消すことなく、今現役の我々にバトンを渡して頂いたこと、紡いで頂いたことに感謝したいと思います。
締めくくりのお言葉にある通り青年部活動を通して成長し、仲間を増やし挑戦する。
現役の我々は金言として、日々の活等に勤しみたいものです。